【謹賀新年】「希望を」信じて行動するしかない。いつか、コロナは終わる。
更新日:2021年1月5日

希望をもぎ取ろう
そう決心した、2021年の初朝
「希望をつかもう」だと綺麗ごとのようで嘘っぽいし、今年ってそんな清楚に綺麗ごとでやっていけるほど簡単な年でもない。あるいは「希望を持とう」だと、保守的すぎて、特に今年は、そんな容易く希望なんてやってこない。
なんとかせにゃならん。
と足腰にチカラ入れて踏ん張る年。
それくらいの気持ちじゃなきゃ、今年は乗りきれない。
と言うわけで、「希望を掴み取ろう」なんてと言うと、こそばい(=こしょばい)ので、恥ずかしまぎれに「もぎ取ろう」なんて、表現してみた。

最近では、お店やサービス業のHPで「コロナ」と言う単語を使わずに「諸般の事情」「近況の事情」など、フワッとした「分かってくれるよな?」的なニュアンスの表現が増えてきた。
スパッと「コロナ!」
とは言いにくくなってきたのだ。
正直なところ、私もこの「コロナ」と言う単語を恐れている。風評被害、先行きの見えない不安、それらを隠そうと、出来るだけ感じさせないようにと、フワッとした言葉を使っていた。
これでは、良くも悪くも日本らしい「婉曲法」ではないか。
そんな事したって、判断が遅くなるだけで何も変わらない。(どこかの発表を見れば分かるように)

ある朝、
コーヒーを飲みながら、むっくりと黙り込んでいた。
眉間にシワを寄せて、目を細めながら、カーテンから差し込む太陽を見つめていた。
ペラペラとお喋りな私にしては珍しい。
(1秒たりとも "口が動いていない事" がないらしい。)
異常事態だと思った、パートナーが「どうしたの?」と聞いた。
「コロナ、どうなるんだろう? とうとう東京は1300人にもなっちゃって」
「そうだね。これまで以上に気をつけよう」
「うん・・。でも先行きが不安。本当にどうなるんだろう。わたしたち」と言って、私は大袈裟なため息をついた。でも気持ちは、過剰でも大袈裟でもない。真剣だった。
先行きが見えない
それは、私だけではなく、みんなもそうだろう。
ずっと感じている人、
偶に感じる人、
感じないようにしている人、
それぞれ居るだろうけど、「コロナによって変わる自分の未来」を意識しなかった人はいないんじゃないだろうか?
あからさまに不安げな私に、パートナーは言った。
いつか、コロナは終わるよ
「ニュースを見たと思うけど、世界ではワクチンの接種も始まった。まだ副作用とか、コロナの全容は解明中だけど、前と同じ社会にしようと世界が動いている。」
「だから、コロナがなかった時と同じように、して」

確かに。
そりゃそうだと。アッサリと納得した。
もちろん、コロナなかった2019年と同じ社会は戻らない。しかし、2020年に教訓を胸に、新しい形を変えて、2021年がやってくる。
”前と同じ社会”とは、人々の健康と平穏を願える社会と言う意味だ。

希望の火を燃やし続けたい
だから、考え直した。
コロナは、コロナ。
できる事をしよう。
あの不安だった日、カーテンから差し込む太陽を見て、こんな時代だから
自然のチカラが必須
だと感じた。
「不安だ」と口走りながらも、まばゆい太陽が幸せと調和してくれていたから。
マスクを外して酸素をめい一杯吸いたい
開放感が欲しい
体を動かしたい
どっか出かけたい
楽しい、想い出作りたい
綺麗な景色が見たい
これらを叶えてくれるのって、まさにトレッキングじゃないか
健康とか幸福感とか求めている人が、
「もう限界だ!どっか行きたい」
「助けてくれえ」
「どっか旅行とかやってないの?」
となった時に、
ホイッ
美味しい空気が吸えるところへお連れします!
と言って、一緒にトレッキングに出掛けられるよう、コロナ渦に負けずに続けて行こう。
そして、去年以上に今年はより多くの人に、この機会を届けられるよう尽力しよう。
「今週はアストレのトレッキングあるから、仕事頑張ろう」
そう言ってもらえるように。
アストレが、みんなの励みになろうじゃないか。
みんなの分まで希望をもぎ取ってこようじゃないか。
(まるで、みかん狩りに行くみたいな言い方ですね(笑) 「実家で取れたみかんですぅ。良かったらどうぞ」なんて、有り余ったエネルギーをみんなにお裾分けしたいです。)
そう。
ちょっと強気な2021年のスタートです。
今年も全力で向き合うので、「やかましい*」かとは思いますが、
どうぞよろしくお願いします。
*地元、関西では冗談で「やかましいわ」とよく言います。漫才でも見た事ありますでしょ? 関西では「やかましい」事は、特技みたいなもんなんですよね。